☆
『つきのカケラをノミコンデ』
雨の音が、ココロを誘う。
薄紅色が、彼方を呼ぶ。
欠けたモノは、永劫に。
ゆめをみる。
ゆめを、みるんだ。おなじゆめ。
音のない世界。
ヒトリ途方にくれたまま。
喪失感に蝕まれ、
ゆっくりと壊れてゆく世界を感じてた。
涙が、こぼれた。
*****
忘れることすら、できない。
いつまでも、小さな棘のように、疼くんだ。
次の仕事へ向かうワゴン車の中。運転はマネージャーが。
いつものように。
ユキはヘッドフォンで音楽を聴いている。
「‥‥‥また、それ読んどるん? 好きじゃねぇ、」
隣に座るセツの手元、見慣れすぎた文庫本の表紙を見て、ユキが云う。
「新作読んだら、またこれを読みたくなったけぇ」
そう云ってセツは文庫本に眼を落とす。
翡翠という筆名の作家が書く【つきのカケラをノミコンデ】という小説。
セツはその本を何度も何度も読み返して。その世界に没頭する。
メロディが、車内に響いた。
「‥‥‥‥‥‥、え、」
顔をあげ。
セツが、複雑な表情を。
いつまでも取り出さないセツの携帯の着信音。聞いたことのない、音。
振り向かないけれど。マネージャーがミラー越しに怪訝な眼を向けている。
音が止まった。
「‥‥‥、」
「‥‥‥、セツ?」
ユキが云うと。セツは我に返ったように。ぴくり、と肩を揺らし。
かばんから、携帯をとりだした。
「‥‥‥、」
ディスプレイをじっと見つめ、「‥‥‥は、」と、小さく息を吐いて。眉をひそめる。
メール。そのまま画面を凝視して。眼が、文字を追う。何度も。
「‥‥‥‥‥‥、厭じゃ‥‥‥、」
聞き取れないほどの呟きを。
「‥‥‥セツ?」
セツの頬に、涙が。
「‥‥‥セツ?」ヘッドフォンを外し、ユキがセツを呼ぶ。
ユキの呼びかけに、セツがのろりとユキを見る。
その眼から、ほろほろと、流れる、涙。
「どうしたん? セツ?」
見開いたままの眼はユキではなく、何処か遠くを見ているようで。
自分の流す涙にすら気づかずに。
「・・・・・・けっ、こん、・・・・・・する‥‥‥って、」ぽつりと、「桜緒‥‥‥が、?‥‥‥どうしよう‥‥‥」
そう、云って。
自分のその涙声に。ようやく気づく。
「‥‥‥あぁ、‥‥‥わし、泣いとったん。ね‥‥‥?」
他人事のように。そう云って。
ず、
ハナをすすって。眼鏡を外し、服の袖で涙を拭った。
「‥‥‥そうか、‥‥‥わし、‥‥‥泣けるんじゃねぇ‥‥‥」ぎこちなく、笑った。
はぁ‥‥‥、
息を深く吐いて。
「7年‥‥‥、」
天井を見上げて。
「‥‥‥そうじゃのぉ‥‥‥、充分じゃねぇ、」
「‥‥‥セツ?」
「‥‥‥うん、‥‥‥大丈夫。なんでもないけぇ。‥‥‥気にせんで?」
云われて。ユキは座席に躰を戻し、ヘッドフォンをつける。マネージャーもかなり気になっているらしくちらちらと、ミラー越しにこちらを見ている。
‥‥‥セツが、‥‥‥?
セツが、感情をだした。
ユキは内心驚いて、焦っても居た。
なんで? なにがあった? 結婚? 誰れが? ‥‥‥セツ?
なに? 誰れが、
7年‥‥‥?
ちらりとユキは横目でセツを見る。
セツは、本を閉じ。携帯を握りしめ。
ぼんやりと、視線を窓の外に。
セツが泣いた。感情を顕した。そのことに、ユキは。‥‥‥ユキはそっとため息を漏らす。
*****
「あれ、セツくぅん眼赤いですけど? 大丈夫ぅ?」
次の仕事は雑誌の写真撮影。ヘアメイクの桐野に云われてセツは、「泣いちゃって」とあっさりと答えた。
「あら、泣いちゃったのぉー? アレルギー? セツくん猫駄目だったよねぇ」
「うん、猫駄目。くしゃみでるし」
会話をしながら、手際よくメイクを施し、「うーん、どうしよう。サングラスかけようか?」
「目立つ?」
「そうでもないけどね、今日はアップも撮るって云ってたから。ホラこれ、素敵じゃない? あー、お似合い」
と、薄く色の入ったサングラスを装着させられた。
「‥‥‥珍しいアイテムじゃねぇ」
軽く揶揄するようにユキが云う。
桜の木の下にセツとユキのふたりが立つ。
暖かい春の陽気。時折吹く風はまだ冷たい。
「‥‥‥すまん、」
「なにが?」
「‥‥‥泣いたりして。仕事に支障でた」
「ああ、」
カメラは離れたところから望遠でふたりを撮っている。
「ええじゃろぉ。ソレ、わりかし似合ぅとるけぇ」
「‥‥‥うん、」
「‥‥‥来週から、暫くオフじゃねぇ」
ユキが話題を変える。
シャッターの音が、遠くから聞こえる。
セツは上を向く。桜の花びらがはらりはらりと散っている。風に落ちる花びらを手に受け止めて。
「まだ、‥‥‥咲いとらん。あの街には、桜」
遠いけぇのぉ、
悲しそうに、嬉しそうに。
ほんの少し、微笑んだ。つくられた笑みではなく。微笑んだ。
「‥‥‥、」
セツから、
感情が、零れおちる。
手のなかの花びらを、足許に落とした。
*****
「ユキ。‥‥‥わし、すきな子ができたんよ」
珍しくはしゃいだ様子でセツが云った。
放課後の音楽室。アコースティックギターを爪弾いていたユキが手を止めた。
窓辺に立つ、セツの姿は逆光で。
「へぇ、‥‥‥珍しい。いうか、はじめてじゃのぉ、セツがそんなこと云ぃよるん」
「うん、はじめてじゃ。‥‥‥じゃけぇ、もう。誰れともつきあわんけぇ」
「へ? その子とは? つきおぅたりせんの?」
「遠いところに居るし、‥‥‥わしの片想いじゃけぇ。それにまだ中学生よ」
逆光で。セツの表情は良く見えない。
「中学生? なんでまたそんな、」
「で、なぁ。わし、大学きめたんよ。その子の居る街に行く」
窓の外に顔を向けて。セツは、しあわせそうに遠い眼をして。笑った。
*****
「‥‥‥寒ぅ‥‥‥、」
ぐるぐる巻きにしたマフラーに顔を埋めて。
セツはゆるやかな坂道を歩いていた。
「‥‥‥寒、」
はぁ、
息を吐くと、眼鏡が曇った。
東京では、もう桜が咲いているのに。
この街の空気にはまだ、冬の名残がそこかしこに。
いちばん好きな街。
坂の途中で立ち止まり、空を見あげる。
同じ空の下にいる。
そう、思うだけでこんなにも。
冷たい空気を吸いこんで。セツは再び歩き出す。
もう遅い。いまさらだってわかってる。
でも、
それでも。
逢いたい。
ずっと、
逢いたかった。
逢いたい。
押しとどめていた想い。
逢いたい。
逢いたい逢いたい逢いたい逢いたいアイタイ。
一週間。
それだけを考えて。この街を描いて。この風景を。
逢いたい。
その衝動。
止められずに。この道を歩いている。
躰が覚えている。この空気。この街のこの道の空気。気配。
あの頃、何度も歩いた。この道。登り切って。
うつむき加減に歩いていたセツが、顔を上げると。
「‥‥‥ぅわ、‥‥‥」
桜が、
満開だった。
さわさわと、風に揺れる。巨木に咲く薄紅色の塊。
‥‥‥あぁ‥‥‥、
セツは立ち止まり。その情景を。
「‥‥‥っ、」
胸がつまる。
変わらない、ものがある。
ただそれだけなのに。
それだけ、だったのに。
躰の奥底から湧き出る。この、感情は、なんなんじゃろぉ。
‥‥‥わからん。じゃけぇ‥‥‥、
「‥‥‥綺麗じゃ、‥‥‥」
呆けたように見上げていると、
「‥‥‥セツ、くん‥‥‥?」
後ろから、
声。
懐かしい。
忘れられない。
セツはゆっくりと。
振り向いた。
‥‥‥桜緒、
その姿を眼にして。
口を開きかけたまま。
そのまま、セツは。
「‥‥‥カナシイの‥‥‥?」
「‥‥‥え?」
小首を傾げ、桜緒が云った言葉に、セツが気づく。
‥‥‥あ、
あぁ、泣いとった。また、‥‥‥。
カッコ悪ぅ‥‥‥。
眼鏡を外して。ごしごしと眼を擦る。上を向いて。ハナをすすって。息を整えて。眼鏡をかけ直して。
そこに居る。彼女の姿を。
変わらない。変わらない、‥‥‥桜緒。桜緒が、‥‥‥居る。
「寒いでしょう? なかに、入りましょう?」
本当にそこに居るんだ。当たり前のことをセツが思っていると、桜緒がそう云った。
桜が、さぁっと。
風に揺れてその花びらを散らした。
*****
シナモンの香り。
セツは両手で大きめのマグカップを持ち、一口飲んだ。
‥‥‥ふぅ、息をつく。冷えた躰に温かさが浸みていく。
桜緒を見る。
桜緒は柔らかにセツを見返した。
慌てて。セツは眼を伏せ。
シナモン入りの温かいミルクティーをまた一口。
暖かな部屋の中。
当然だけれど。あの頃とは異なる。インテリア。家具の配置。
けれど。
あの頃と同じようなこの居心地の良さ。
坂の上にぽつんと建つ。瀟洒な和洋館。桜緒の住む家。あの頃、セツが暮らしていた家。
リビングに満ちる紅茶とシナモンの香りのなか、微かに混じる、油絵具のニオイ。
「‥‥‥あ、」
突然桜緒が声を、
「‥‥‥え?」
「‥‥‥お久しぶり、です」
少しの間。
「‥‥‥えぇ? いま?」
桜緒の言葉に。吹き出すセツ。
笑いだすセツに、「だって、」と。桜緒が少しふくれる。
「‥‥‥変わらんなぁ、」
そう云うと、桜緒は「そぉ?」と、不満そうに桜緒は云ったあと。
「セツくんは、‥‥‥格好良くなった、」
ふふ、と笑って。
「ゲーノージン。ですねぇ、」
なんでもない口調で云われ、その単語にツキン、と。ココロが痛んだ。
強張った表情を見られたくなくて。顔を伏せてミルクティーをすする。
「碧くんと静さん、‥‥‥会いたがっていました」
ゆったりと。静かに話す。その口調。
「きっと、残念がりますね。来てくれたこと。教えたら、」
「ふたりとも、‥‥‥居らんの?」
「はい、」
「‥‥‥あ、‥‥‥そぅ‥‥‥」ふたりきり‥‥‥、
「‥‥‥?」
眼を泳がせるセツを不思議そうな表情で桜緒は見ている。
「‥‥‥セツくん、」
「はい?」
「‥‥‥‥‥‥、」
「‥‥‥なに?」
「お久しぶりです、」
‥‥‥また云った。
「‥‥‥はい、」
なにか云いたそうな桜緒の様子。
何しに来たの? って、訊かれるじゃろぉか。
「桜が、咲いたんです、」
‥‥‥え?
「さくら?」
窓に眼を向ける。大きなベランダ窓の向こう。薄紅色の塊。
サクラがサイタ‥‥‥。
「お仕事ですか?」
そう云われて桜緒に顔を向ける。
「違う‥‥‥、」答えながら、桜緒の表情を伺う。
「えっと、‥‥‥今日からひと月。休みで、‥‥‥」
「お休み?」
「うん、そう、‥‥‥休み、」
「‥‥‥お仕事で来たんじゃあ、ないの?」
「違う、休みで。‥‥‥個人的に、‥‥‥来たんよ、ひとりで、」
だんだんと声が小さくなっていくセツ。
メール見たから。‥‥‥なぁ、桜緒? 結婚、するって。本当? ‥‥‥ずっと、ずっと逢いたかったんよ。‥‥‥いまさら? 呆れられる?
でも、‥‥‥だから、‥‥‥、だから?
「‥‥‥ここに来ることが、目的」
「‥‥‥‥‥‥、」
「‥‥‥、」
「ああ、」
「‥‥‥、」
「よかった、」
「え?」
*****
わし、なにしとるんでしょうか?
キッチンに立って、下ごしらえをしながら。セツはちらりとリビングの桜緒を見る。
桜緒は窓辺で、外を見ている。
ほんまに、変わっとらん。
どこか浮世離れして。ふわふわと。夢のなかにいるような。
久しぶりなんで調子が狂う。
‥‥‥いや、こういう子だって云うのは充分知っていますけれど。
でもなんで、
こんなにも。
‥‥‥わしがここに居ることに違和感やら疑問やらをも持たんの?
うん、まあ。
そういう子なんよね。‥‥‥うん。
別に、拒否されたい訳でもないし。邪険にされたい訳でもない。こうやって。拍子抜けするくらい受けいれてもらえて、ほっとしている。
戸惑ってもいるけれど。
紫にんじんとトリュフ、ヤーコン。
紫にんじんとヤーコンは、生のまま、サラダに。
トリュフは、パスタに。
静さんも変わらず。香辛料やら調味料やら道具やら収集しとるんじゃのぉ。棚にずらり並んだ瓶を眺めて感心する。
でも、キッチンが綺麗に片付いている。ということは、
「桜緒、料理しとらんのね」
未だに、食べんのかなぁ。‥‥‥静さんも碧さんも甘々じゃけぇのぉ、桜緒に。
考えながらも、手際よくセツは調理を終え、できた料理を器に盛り付けた。
「できました」
ダイニングテーブルに料理を運びながら声をかけると。
床中に広げた紙の真ん中にうずくまっていた桜緒が顔を上げて。
「おいしいニオイ、」
そう云って立ち上がり、「あれ? ‥‥‥、」
困った顔で、セツを見る。
「あぁ、」
セツは苦笑して。桜緒のところへ行き、彼女を囲むように散らばった紙を集め始める。
「ありがとう、」
通り道ができ、桜緒は「手を、洗ってきます」と、リビングを出て行った。
「‥‥‥ほんまに‥‥‥変わっとらんのぉ‥‥‥」
その後ろ姿を眼で追って。セツはくすりと笑い、手に持った紙に眼を落とす。
「‥‥‥、」
‥‥‥あ、これ、‥‥‥わし、じゃぁ、ね。
ラフ画。キッチンに立つセツの後ろ姿。
「セツくん、痩せましたね」
ひょこん、と。いつの間に戻ってきたのか桜緒が後ろからセツの手元を覗き込んで云った。
近い。 近い近い!
密かに焦るセツ。桜緒はセツが手に持った紙をすっと取り。リビングのテーブルに乗せた。
「‥‥‥ごはん、?」
「‥‥‥ああ、はい」
くんくん、
パスタのニオイを嗅ぎ、首を傾げ。口に入れる。
むぐむぐ、
「‥‥‥美味し‥‥‥い‥‥‥?」
「なんで疑問系なんよ」
「あ、コレは美味しいです」
ぽしぽし、しょりしょり。
紫にんじんとヤーコンは気に入ったらしく笑顔。
ほんまに、‥‥‥変わっとらん。
何年も逢っていなかったのに。そのままの空気感。ふたりの間に流れる空気。
逢いたくて逢いたくて逢いたくて、‥‥‥ずっと、逢いたかった。
もう、
逢えないと思っていた。
なのに。
‥‥‥何なんじゃろぉなぁ‥‥‥ほんまに、
何なん? この状況。
なあ、桜緒?
「‥‥‥セツくんが来てくれて、良かった、」
にこっと、笑って。
そんなこと、云うなよ。云わんでよ。
手を、伸ばしたくなる。
もしかして。って。期待したくなる。
‥‥‥、
7年、桜緒は何を思っていた?
*****
家の電話が鳴って。コードレスの子機を取った桜緒が二言三言話し、居間から出て行く。
ひとり残ったセツは携帯を取り出し着信を見る。
マネージャーからとユキから。数回ずつ。メールと電話がきていた。
黙って来ちゃったけぇ。
セツはそのまま携帯をポケットにしまった。
「‥‥‥、」家の中を、改めて見回す。
たぶん桜緒が。
あまりにも変わっていないから。
7年間。
連絡も一切取らずに。取れずに、いた。
桜緒になにも云えずに。この家を出て。
7年経って。いまさら。
ふらりと現れたセツに。
まるでその空白が無かったかのように。
いまここにセツの居ることが当たり前のことみたいに。空白なんて無かったみたいに。
途切れた時間が、
続いていたみたいに。
錯覚してしまう。
離したくなかったその手を。
‥‥‥離したくなかったんだ。
「じゃけぇ、結局は、‥‥‥うたうことしか、できんのよ。‥‥‥わし、」
「知っていますよ」
「わぁ! ‥‥‥吃驚した」セツが云うと、桜緒はくすくすと笑いながら、コードレスの受話器を持ったまま、
「セツくん。ホテルとっています?」
「え? ‥‥‥あ、‥‥‥いや、」
「あのね、静さんがね。あと一週間くらいで帰ってくるって、」
「あ、‥‥‥静さんなん? 電話、」
「うん。それでね。セツくんにね、待っていてって、」
「え? ‥‥‥え?」
「‥‥‥はい? セツくんに? はぁい。ちょっと待って、‥‥‥セツくんに替わってって、」
「ええ? ‥‥‥じゃけ、ちょ、」
慌てるセツに受話器を持たせて。「キャラメル淹れよぉと、」と桜緒はキッチンへ。
「‥‥‥えぇー、」
『もしもーし! おーい。桜緒? セツ?』
「‥‥‥セツです、」
『おお? ‥‥‥おー、セツ。久しぶりだな。元気か』
「はい、」
『休みなんだって? いつまで?』
「一ヶ月です」
『そうか。桜緒にも云ったんだけどさ。一週間したら帰るから。他に何か用事あるのか?』
「‥‥‥いえ、別に」
『じゃあ、そこに居ればいい。ホテルとってんならキャンセルして。おまえの部屋、あるんだし』
「‥‥‥え、?」
『よかったよ。桜緒、ひとりにしておくと食わねぇからさ。悪いけど、世話してやって』
「‥‥‥、」世話って。
『じゃあ、頼んだわ』
「ええ? ちょ、‥‥‥‥‥‥切れたし、‥‥‥」
ありえん。
「あれ? 切っちゃった?」
カップをふたつ持って桜緒がセツの向かいに座る。
「うん、‥‥‥あ、ありがと」
セツはカップを受け取り、受話器をテーブルに置く。「キャラメルミルクティー、」
「静さんはなんて?」
「‥‥‥ここに居て、桜緒の世話しろって、」
そう云うと。桜緒は「なにそれぇ、」と笑う。
「‥‥‥部屋。‥‥‥わしの部屋、まだあるって?」
「‥‥‥セツくんの、お部屋ねぇ、」
「うん、」
「そのままなの、静さんが、」
「‥‥‥、」
「帰ってくるんだから。って、」
「え?」
「帰ってきたときにね? 部屋は必要なんだから。って、」
「‥‥‥、ほんまに、」
‥‥‥なんなんよ。
胸がきゅっと。‥‥‥泣きそうになって。顔を伏せ、ミルクティーを飲んだ。
「あ、もちろん、ね。セツくんの都合もあるでしょうから、無理にとはいいませんよ、」
「‥‥‥いや、ええんじゃけど。わしの都合は。‥‥‥じゃけぇ、‥‥‥」
「‥‥‥はい?」
「静さんも碧さんも居らんのに。ふたりきりなのに、ええの?」
「?」意味がわからないという顔をしている桜緒。
「わし、男よ?」
「‥‥‥知っていますよ?」
首を傾げ、そう云う桜緒に、
「‥‥‥けっ、こん、‥‥‥する、云うてんのに、」
ええの? そう云うと。一瞬きょとん、として。
「けっこん‥‥‥?」
「‥‥‥するんじゃろぉ、結婚、」
「‥‥‥けっこん‥‥‥、あぁ、」
桜緒は思い出したように。呟いて、
「‥‥‥でも、‥‥‥関係ないでしょう?」
関係ない。
そうじゃけど、
桜緒はスケッチブックを取り、手を動かしはじめた。
「‥‥‥なに、また。わしのこと描いとるん?」
時折、目線が来るのに気づき、セツが訊くと。「そう、」とひとこと答えて、あとは無言。
鉛筆の走る音だけが部屋に。
暫く経って。急に桜緒が顔をあげた。
「‥‥‥あれ?」
「え?」
「どうして知っているんですか? 結婚のこと」
「え、‥‥‥メール、くれたじゃろぉ?」
「メール? ‥‥‥、」
「‥‥‥桜緒の、アドレスだったけぇ、」
「メール‥‥‥?」
首を傾げて。手を動かし続ける。
見つめられて。
手が届く距離にいるのに。
こんなにも。
息が、苦しくなって。
「どんなひと?」
「‥‥‥え?」
「相手の人。結婚の、‥‥‥どんな人なん?」
苦しくなって。
訊きたくないことを、口にした。
「‥‥‥うん? ‥‥‥どんな、‥‥‥」
桜緒は手を止めて。
カップを取り、ミルクティーをひと口。
「お土産のお菓子が美味しい、」
「………………、はい?」
「‥‥‥うん、‥‥‥優しくて、‥‥‥えっと。スーツがね、似合います。バレンタインに、女の子からチョコとかプレゼントたくさんもらって、困っていました。お誕生日も同様。‥‥‥東京の出版社の、なんだっけ? 偉い人? 『PGファクト』、社名」
「‥‥‥PGファクト、」聞いたことある。「碧さんの写真集出しとる処じゃね」あと、【翡翠】の本も出しているところだ。
「‥‥‥碧くんが帰ってきたら、逢えますよ。多分いま一緒に行動している筈」
え? 誰れに? ああ、スーツの似合う「結婚相手」に。
「、‥‥‥碧さん絡みで知り合ぅたん?」
「? ‥‥‥うん? ‥‥‥そういう感じ‥‥‥?」
「‥‥‥いつ、するの。‥‥‥けっこん、」
「‥‥‥いつかなぁ‥‥‥、マドカさんのお仕事のこともあるし。碧くんに訊けばわかると思いますよ?」
「‥‥‥マドカ、‥‥‥っていうんじゃね」
「そう、マドカさん。素敵な人ですよ」
「‥‥‥すき、なん?」
ああ、あほじゃ。‥‥‥当たり前の。当然のことを訊いてしまった。
桜緒は、にこっと笑って。
「ええ、‥‥‥すきです」
残酷なことを云う。
「セツくんも、きっと。すきになってくれると思います」
残酷な。
「‥‥‥ぁあ‥‥‥うん、」
うん、
*****
部屋に備え付けのシャワーを浴びて。
髪をタオルで拭きながら窓辺に立って、外を見る。
桜が、闇に白く浮かんでいた。
どうしていいのか、わからない。
なんで、
なんで?
結局そのまま滞在することになった。
懐かしい。自分の部屋だった、この空間。
まだ、‥‥‥わしの部屋。
なんでじゃろぉ。
なんで、
すべてが、あの頃のままなんじゃろぉ。
なんでわしの居場所があるん?
ねえ、なんで?
携帯が鳴った。
メール。
『何処にいる? 大丈夫?』
ユキからだ。
大丈夫?
‥‥‥大丈夫、
なにが?
‥‥‥何しに来たんだっけ?
逢いたくて。
逢いたかった。ずっと。
永遠に消えない。
このキモチに。
はじめての。
ずっと、ずっと。
好きだった。
好きなんだ。
*****
スウェット素材の部屋着に着替えて。階段を下りる。
桜緒は居間でノートパソコンを開いていた。
セツの気配に顔をあげ「そういう格好していると、学生さんみたいですね」そう云って笑った。
「なにか飲みます?」立ち上がろうとするのを制して。「勝手にやっていい?」と訊いてから。インスタントの珈琲を淹れて。桜緒の向かいに座る。
「ネット?」
「ううん、違います。‥‥‥ねぇ? セツくん」
「ん?」
「‥‥‥なにをひきかえに、するのかなぁ」
「‥‥‥は?」
「あぁ‥‥‥違いますね。‥‥‥願い事」
パソコンの画面を見ながら。桜緒が問いかける。
「叶うとして。‥‥‥叶えたいことがあるとして、」
「うん、」
「願いが叶う。そのための、代償‥‥‥、」
つ、っと。顔をあげてセツを見た。
「そこまでして、叶えたい願いって。なんでしょう? ありますか? セツくんには、」
「‥‥‥、」
願い。
桜緒の表情を探る。うわの空っぽい。パソコンの画面に眼を向けている。
「‥‥‥なにもかも捨てて。とか、」
桜緒の瞳は何を見て。
「なにもかもを犠牲にしてとか。‥‥‥そんな、感情だけで動けるほど、身軽じゃあないものねぇ、」
しがらみとか。
仕事とか。
責任とか。
自身の言動が周りの誰かの生活を動かしている。
その現実。
「コドモは不自由だけれど。オトナは、面倒ねぇ、」
オトナの思惑で動かされるコドモは早くオトナになりたくて。
けれど、オトナになるその年月その時間に絡み合う柵が解けなくなっていることに気づいて。結局は自由なんて幻想だと思い知らされる。
事務所からは。全部忘れろと。全部を捨てろと。
おまえ自身が『商品』なのだから。
ファンが望む、フェイクを纏って。
望み通りに、身につけた。
ミンナヲアイシテイルヨ。
作った笑顔。誰かが望む受け答え。
本当の自分は、ドコニイル?
虚像が侵食していく。足許から這い上がって。身動きが取れなくなる。
息ができなくなりそうで。
そんなとき。
アドレスを呼び出して。
メールを打った。
『桜が咲いたよ』『猫がくるまに足跡をつけていった』『月が、綺麗すぎて。欲しくなった』
『逢いたい』
送ることはできない。でも、そうやってメールを打って。ふぅーと。息を深く吐くと。
呼吸が、できた。
夜に浮かぶ月を見て。遠いあの情景に立つその姿を思う。
居るはずのない都会の雑踏に、いつも捜していたその姿を。
何処にいても。
誰れを見ても。
オモウノハ、タダヒトリ。
ずっと、
夢のなかでさえも、
きみを。
きみだけを想って。
苦しくて悲しくてどうにかなってしまいそうで。
うたうことで、吐き出して。
ステージの向こう。
カメラの向こう。
ただ、せめて。
きみに届くことだけを願って。
うたってきたんだ。
うたうことしかできないんだ。
テレビも雑誌も、あの世界はフェイクでつくられている。心を無くせば、何にでもなれた。笑っていたよ。造りあげたフェイクがリアルに虚構が現実に。
だけど。
きみのためにうたう。それだけは、真実なんだ。
ねぇ?
デビューしたときの、押しつけられた決めごとよりも。
自分で選ぶことができるいまのほうが、不自由な気がする。
名前を知られて。顔を知られて。
プライベートを探られて騒がれて。
セツの居る。あの世界は。
いつまで経っても、立ち位置ががわからない。
それでも、
「‥‥‥うたうことしか、できないけぇ」
願いは、
望みは、
叶うのなら。
ひきかえにできるものなんて、この声しかない。この声を?
逢いたい。
逢えない。
アイシテル。
アイシテル。
‥‥‥、
「‥‥‥わたし、セツくんのうた。すきです」
そう云って。顔を上げ、セツを見る。
その瞳が。セツを。
「‥‥‥すきですよ、」
やわらかく、笑みを浮かべて。
キミを、想ッテイタンダ。
口にできない。
もう、叶わない願い。
じゃあ、何故? どうしてまだここにいるんだ?
*****
夢を、
みるんだ。
カナシイゆめ。
しあわせなのに、
涙が止まらない。
音のない暗闇の中にひとり。
何かを捜しているんだ。
どうして良いのかわからない。
何かを捜しているはずなのに。
ただ、
途方に暮れている。
ずっとずっと、
なまえを。
呼びたくて。
声がでなかった。
ああ、もう。
その名を、呼ぶ事もできないんだ。
うずくまることもできずに。立ちつくす。
足許に溜まっていく涙が。
いずれこの全身を沈めるんだろう。
‥‥‥、
はぁ‥‥‥、
ず、‥‥‥。
セツは眼を覚まして。ハナをすする。濡れた頬と目許を擦る。
「‥‥‥ほんまにもう‥‥‥、」
泣いてばかりじゃ。
時計を見ると、昼に近い時刻。
ベッドから降りて。シャワーを浴びた。
鏡を見て。瞼が腫れていないのを確認して。
「‥‥‥よっしゃ、」
気合いを入れた。
階段を下りて。
‥‥‥あれ?
良いにおいがする。
リビングのドアを開け、キッチンを覗くと。‥‥‥一瞬、躰が強張った。
背の高い。
男の背中。
‥‥‥桜緒の‥‥‥?
相手の男か?
そう、思って。その場から、逃げたくなった。躰が、動かない。
と、
男が、振り向く。手にはフライパン。「‥‥‥お、」
そこにいるセツを見て。笑顔になった。
「おはよう、セツ」
「‥‥‥碧さん、」
「ああ、丁度良いや。手伝って」
「あ、うん。‥‥‥なにすればええん?」
気づかれないように安堵の息を吐き、キッチンへ入る。
「珈琲。豆挽いてくれる?‥‥‥三人分。フレンチだから濃いめに」
「了解。碧さんいつ帰ってきたん? わし、気づかんかった」
「着いたの十時くらい? 東京にいたんだけど。静さんから連絡来てね。セツが来てるって云うから。急いで帰って来ちゃった」
「そうなん。あ、わしやるけぇ」
挽き終えた粉を珈琲メーカーにセットして。セツは碧から卵の入ったボウルを受け取る。
「オムレツ?」
「うん、いっぺんに焼いちゃって」
牛乳とオリーブオイル、塩胡椒を入れ、温めたフライパンにもオリーブオイルとバターひとかけら。少しだけマヨネーズも入れて。
じゅわ、
卵を流し入れ。フライパンを揺らしながらかき混ぜる。
「完成っと、」
「おぉー。腕あげたんじゃない? 自炊してるの?」
「最近は、結構時間に余裕あるけぇ、家でつくっとるよぉ。ふたりに鍛えられたのが役立っとるんよ」
「そりゃあ良かった、」
テーブルに料理を運ぶ。
「‥‥‥桜緒は?」
「庭に居ると思うよ。そろそろ呼んでこようかな」
「‥‥‥碧さん、」
「ん?」
「わし、‥‥‥居ても良ぇんじゃろぉか?」
碧が、手を止めて。セツを見る。
「なんで?」
「‥‥‥なんか、‥‥‥勢いで来ちゃったんよ。‥‥‥メールがね、‥‥‥メールが来て。桜緒から」
「‥‥‥桜緒?」
「‥‥‥、うん、‥‥‥結婚する。って、」
「‥‥‥ああ、」
碧が、ふっと笑う。
「それで、来たの?」
「‥‥‥うん、」
そう、そっか。碧がひとりごちて何か考える仕草。
こぽこぽこぽ、
珈琲メーカーがたてる音が止まる。
「なんか。‥‥‥駄目じゃった。どうして良いか判らんくなって、‥‥‥」
セツが定まらない視線を動かす。窓の外に、桜緒の姿が見えた。
「‥‥‥顔、見とぉなって、」
「‥‥‥籍入れて、内輪だけでパーティしようかって、」
碧が云う。セツは碧に眼を向ける。碧は微笑んで。
「折角だからセツにも、出席して欲しいけど。無理?」
無理? どっちの意味で? 忙しいから? ‥‥‥辛いから?
セツが黙っていると。
「冷めちゃうね」
碧がそう云って、「桜緒」と窓を開け、桜緒を呼んだ。
「寒いです。‥‥‥セツくん、おはようございます」
「おはよう」
「桜緒、カフェオレ? 紅茶?」
「カフェオレをください」
云いながら桜緒は手を洗いにそのままリビングを通り抜けていく。
「‥‥‥あのねぇ、」
その姿を眼で追っていたセツに碧が、
「難しいこと、考えなくて良いんだよ?」
「‥‥‥え、」
「セツの部屋、あるんだからね」
「‥‥‥、」
「難しいオハナシ?」
桜緒が戻ってきて、碧からマグカップを受け取り、席に着く。
「ん? セツがね、もう帰るって」
「え? ちょ、碧さん」
「もう?」
桜緒がじっとセツを見る。
「寂しいです、」
「いや、そんな。帰るなんて一言も云っとらんけぇね」
慌てるセツに、碧は笑いを堪えてる。
「ちょ、‥‥‥碧さんー」
その様子を、不思議そうに桜緒が見ている。
「‥‥‥‥‥‥帰らないの?」
「帰らんっ、」
云ってから、セツは、
「‥‥‥帰らんけど、‥‥‥」
桜緒を見る。桜緒は、
「お休みの間中、居てくれたら、いいのに」
そう云って笑顔を向けた。
「え、‥‥‥ほんまに?」
「はい、」
微かに笑みを浮かべている碧から、オムレツとパンケーキを受け取って。桜緒が頷く。
「セツも、はい」
「どうも。ありがとう、」
席に着き。
「いただきます」
「これ、おひるごはん?」
「そうだねぇ。メニュー的には朝食って感じだけどね」
「いつもはちゃんと朝に食べるん?」
「いや、そうでもないよね。桜緒は食べないし。‥‥‥あ、オムレツはセツが焼いたんだよ」
「いつもと味、違うから、」
「‥‥‥どう?」
「マヨネーズ?」
「うん、」
「美味しいです」
よかったー。セツがほっとした顔で自分も食べ始める。
「あ、」
碧のポケットからメロディ。
「ごめん、」
そう云って。碧が携帯をとりだし、「はい、‥‥‥ああ、うん、」云いながら、席を立って出て行く。
「‥‥‥マドカさん、」
「え、」
「音、」
ああ、着メロ?
「会えますよ、」
「桜緒、シロップかけ過ぎ‥‥‥、え?」会える?
「アイス、欲しい」
「アイス? あるの?」
立って、冷凍室を開けて。「あー、あるね。‥‥‥どれ?」
「かぼちゃ、あります?」
「これ?」
「ありがとう。セツくんも、いる?」
「じゃあ、少し」
「はい、どーぞ」
「これ、『少し』云う量と違う」
むしろ桜緒の取り分が「少し」。セツが桜緒に云うと、ふふ、と笑う桜緒。
セツも苦笑して。食べる。
「あ、旨、」
「ね、」
「いや、ね。とかじゃないけぇ」
旨いから良ぇけどね。
「お、アイス」
「碧さんいる?」
「要らない。‥‥‥あのさ、」
碧は席について、
「円、遅れるって」
「そうなの、」
「なんか石がどうとか、桜緒に云っておいてって‥‥‥なに?」
「あぁ、‥‥‥ナイショです」
「あれ? 内緒?」
ふぅん。云ってから、碧はセツを見て。
「例の、」そう云って意味ありげに笑う。「ホントはもう着いているはずだったんだけど、仕事の都合で、着くの夜だって」
「‥‥‥例の‥‥‥、」
「例の?」
桜緒が首を傾げる。
碧は「オムレツ冷めちゃったー」「でも美味しいねー」と云いながら、食べ終えて。
「セツは、酒はどうなの?」
「どうって?」
「呑める?」
「そこそこ、」
「そこそこかぁー」
「え、なんで?」
「ふたり、底なしだから?」
「そう、」
「ふたり、‥‥‥」
「碧くんと円さん。底なし」
くす、桜緒が笑う。
「セツくん、今夜寝られないかも」
*****
碧と一緒に入ってきた、スーツ姿の。その人物がセツを見て、固まる。
「‥‥‥え? ‥‥‥セツ、さん? 【Fiori】の?」
桜緒と碧を交互に見る。碧が頷くと、
「えぇ? 本当に? ホンモノ?」
「うわぁ、」そう云って。一度深呼吸をしてから。
「はじめまして、折原円といいます」
碧さんと同じくらい長身で整った顔のそのひとは、そう云って爽やかな笑顔でセツに名刺を差し出した。
「まさかセツさんにお会いできるなんて。私ファンなんですよ。CDも写真集も全部持ってます」
「‥‥‥ありがとうございます、」
【PGファクト 副社長 折原円】名刺に視線を走らせ、そう答える。
「お客さまが来ているのは聞いていたんですけれど。まさかセツさんだなんて。碧さんも桜緒ちゃんも何にも云ってくれないんだもん。ビックリです。あ、よければあとでサインいただけますか?」
「‥‥‥はぁ、」
上気した顔で。自分を見つめる円に。
その視線に。セツはなんだか居心地の悪さを感じていた。
背が高く。
緩いパーマのかかったショートの髪。
整った顔に浮かぶ厭味のない笑顔。
ハスキーボイス。
何じゃろぉ、‥‥‥なんだか、違和感?
‥‥‥? なんじゃろぉ、
桜緒の恋人。だから? 気に入らないだけ? ‥‥‥違う。厭な感じは全くない。
「‥‥‥あー、‥‥‥可愛いですねぇ、やっぱり、」
「‥‥‥はぁ?」
「痛い!」
「何云ってんの。アンタは」
「碧くん酷い」
叩かれた頭を抑えて抗議する円に碧は、
「セツが引いてる」
「え? ‥‥‥いや、そんな事は‥‥‥、」
桜緒がくすくす笑っている。
「円、着替えてきなさいよ、」
「あー、そうね。シャワーも浴びようかな。もう外、出ないよね。呑むだけだよね」
「ん? どうかな。酒足りなくなったら買いに行くよ」
「あーそっか。じゃあ、外に出てもヘンじゃない格好にしないとねー、セツさんまた後で」
そう云って頭を掻きながら円が出て行く。
「吃驚した? ごめんね。セツの話ししてなかったから」
「あー、うん。‥‥‥ファン、云ぅてもらって、うれしいけぇ」
「ファンなのは知ってたけどさ。‥‥‥あんな興奮してる姿初めて見たよ。割と、クールでさ、格好つけなんだよね」
「ああ、うん。格好つけ云うか、格好良ぇね。‥‥‥なんか、モデルとかそういう感じ」
「ああ、そうだね。結構モテるんだよ。女の子にね」
「そうじゃろぉねぇ、」桜緒も云ってた。
セツは手に持ったままの名刺を指先に挟んで。
「副社長。‥‥‥若いのに、」
「あぁ、同族会社だから。お父さんが会長で、お兄さんが社長。でも、仕事はできるよ。センスあるしね。安心して任せられる」
「碧さんの写真集。出してる会社じゃろぉ?」
「うんそう。出版とか企画とかいろいろやってるんだよね。桜緒もお世話になってるんだよ」
「桜緒?」
桜緒は。ソファの上で膝を抱え、ヘッドフォンをして眼を閉じている。
「本、出してるんだ」
「本‥‥‥?」
「桜緒、作家さんやってるんだよ。結構売れてる。書き下ろしばかりで気ままに書いてるよ」
「さっか?」
「小説。と、詩っぽいのと。イラストも時々。装丁とかもね」
「‥‥‥そんな事、何にも云ぅとらんかった」
セツが云うと。碧は笑って。
「あの子。喋るときは言葉足りないからね」
「本名で?」
「いいや。ペンネーム。【翡翠】っていう。‥‥‥女子向けっぽいから、セツは読まないか、」
「知っとる‥‥‥、」
「あ、ホント?」
「知っとるわ、わし。全部持っとる、【翡翠】の‥‥‥、マジで? うわぁ‥‥‥」
桜緒が、「?」とした顔で、セツを見る。
ヘッドフォンを外し、「なんですか?」
「‥‥‥桜緒、小説」
セツがそう云うと。
「ああ、」と、少し恥ずかしそうに笑った。
「わしねぇ、本。持っとるんよ。全部」
「‥‥‥あら、」
「【つきのカケラをノミコンデ】がすきで。デビュー作じゃろぉ?」
セツが云うと、桜緒は「あぁ、あれねぇ‥‥‥」と、困ったような顔をして。
「読んだんですねぇ‥‥‥、」
「読んだ、ケド?」
*****
雨の音が、ココロを誘う。
薄紅色が、彼方を呼ぶ。
欠けたモノは、永劫に。
ゆめをみる。
ゆめを、みるんだ。おなじゆめ。
音のない世界。
ヒトリ途方にくれたまま。
喪失感に蝕まれ、
ゆっくりと壊れてゆく世界を感じてた。
涙が、こぼれた。
*****
救いのない物語。
胸の奥がざわつくような。
もどかしいような。
甘く愛しい情景が浮かぶ。
月は、
無くしたカケラをいまでも捜しているのだろうか。
カケラは、
月を思って、泣いているのだろうか。
自分を重ねて。
なんども、読んで。
なんども、空の彼方を見つめて。
月に手を伸ばして。
やっぱり掴めなくて。
開いた手のひらには、何もなくて。
何度も、読み返した。物語。
救いなんて要らない。いっそ壊れてしまえばいい。そう願って。世界が壊れてしまうなら、どんなに拒否されても誰れを傷つけても何を無くしても全てを捨てても。君を抱いて抱きしめて。そのまま融けて終わる世界と一緒に。君と一緒に。
救いなんて要らない。
*****
「‥‥‥円さんもお料理上手よ?」
碧と円が立つ、キッチンの方を見ていたセツに、桜緒が云って、「座っていたら?」とソファを指す。
「‥‥‥え? あ、‥‥‥うん、」
手伝おうかと思っていたセツはそう云われてソファに座る。
「‥‥‥あの外見で、料理もして、仕事もできて、‥‥‥完璧じゃねぇ、あのひと」
「そうね、」
桜緒が頷く。
「セツくんも、完璧」
「わし?」
「うん、」
「‥‥‥、」
あ、また。
やさしい。やわらかな。
この空気。
安心する。
‥‥‥あっちに、ちゃんと恋人が居るのに。
円はこの家に馴染んでいて。もう家族なんだな。と、そう思えるくらいの。
この家に居場所が確立している。なにより桜緒が受けいれている。
「‥‥‥、」
羨ましいんのだろうか。
悔しいのだろうか。
手放したのは自分なのに。
いま。桜緒が傍にいてくれる。
嬉しくて哀しくて胸が痛むけれど。
「どーぞ」
「いただきます」
「かんぱーい」
「あ、これ旨」
「え、嬉しいな。それがつくったの私ですよ」
「美味しいです。何だろう、柚?」
「アタリ。うわぁ、セツさん凄い。柚と味噌と‥‥‥、」
「ワイン空いた、次何呑む?」
「日本酒は? セツさん呑めます?」
「ああ、はい」
「これね、呑みやすいんですけど。結構度数あるんですよね」
「あ、本当だ。呑みやすい。‥‥‥桜緒、食べとる?」
「食べてますよ」
「アボガド食べられるようになったん?」
「これは、食べられる」
「海老とね、柚胡椒と醤油とマヨネーズと少しマーマレードであえるんだよ」
「へぇー」
「桜緒ちゃん食べないからねぇ。食べてもらおうと思うと、レシピ研究するよね」
「そう、だから。桜緒の周りはみんな料理上手」
碧と円はそう云ってくすくす笑いあう。
「調味料とか、専門店並みにあるもんね。この家」
セツが云うと。
「道具とかもね。静さんが集めるんだよ。昔からそうだったでしょ」
「あー、うん。静さん収集するの趣味だもんね」
「‥‥‥ねぇ、セツさんと碧たちて、‥‥‥付き合い長い?」
「ん? 長いといえば長いし、」
「下宿してたんです。デビュー前、大学こっちだったから」
「そっか、H大ですよね?」
「詳しいですね」
「ファンですもん。‥‥‥下宿? ‥‥‥あれ? じゃあ、もしかして。あの2階の開かずの間?」
「開かずの間‥‥‥、」
「セツさんの部屋?」
「うん、そうだねー」
「へぇー」
「‥‥‥ぼく、高校の時、碧さんの写真見て。ここに来て。‥‥‥大学、こっちにするって云ったら、静さんが部屋余ってるからって云ってくれて。ここから、通っていました。大学」
「あー、静さん面倒見良いですもんね。けど桜緒ちゃんが居るのに男の子家に入れるって。‥‥‥うーん、静さんらしいなぁ。豪放磊落?」
「そう、あの性格と外見で。あんな繊細な作品を生み出すんだから、」碧が笑う。
「‥‥‥なんですか?」
円の視線に気づいて、セツが訊く。
「写真とかTV以上だわぁー。素敵。可愛い」
「なんでカマ言葉になるんだよ。浮気者」
「浮気とは違うでしょう。愛の次元が違うんだから」
「次元って、」
「円さんは本当にセツくんのことすきなんですね」
「うん、大好き。インディーズの頃からファンだったんだよー。なに? この声―! って。きゃー。って。インディーズ時代の透明な声も素敵だったけれど。プロになってからのうた声もね。切なくてセクシーで。ぞくぞくしちゃう。碧も桜緒ちゃんも私がファンなの知っているのにさぁ。酷いよね。なぁんにも云わないんだもん」
「云ったら、アンタ。うるさいでしょうが」
「ひどい」
「いいから呑みなさい」
「はぁい」
円のグラスに碧が酒を注ぐ。
「セツもどうぞー」と、有無を云わさず注がれる。つられて呑みほして。ふと気づく。
‥‥‥この調子で呑んどったら潰れる、
「何故かね。セツとは波長があったのか。桜緒もあっさり受けいれたよね」
自分のグラスにも注いで、碧が云う。
「きれい、だったから、」桜緒が、云う。
「学校から帰ってきて。桜の下に男の子が居て。振り向いた。その姿が。ねぇ、」
きれいだったの。視えたの。
だから。いいかな。って。
そう云う桜緒の言葉に。
「そっか。やっぱりセツさんは『そういうひと』なんだねー」と納得する円。
「‥‥‥そんなん、はじめてきいた」
そんな事を。思っていたんだ? あのはじめて出逢ったとき。
桜風吹のむこう。
その姿を眼にしてセツは息をのんだ。
ほんとうに、世界がとまった。音が消えた。
恋に、落ちた。
セツが恋をしたそのとき。桜緒はそう思っていたんだ。
「桜緒ちゃんが認めたひとなんだ。セツくんは、」
そういう円のグラスに碧が酒を注ぐ。円はそれを一気に空け。「そうかぁ、」とひとり頷いている。
「ごちそうさま」
「あ、食洗機に入れておいてー」
「結構呑んだねぇ」
「まだ呑むでしょ?」
「ビール呑んでないね」
「ビール、切らしてるんだよね。買いに行く?」
呑みすぎ‥‥‥、
あれだけ呑んでもまだしゃんとしている碧と円の会話を背に。ふらふらとセツはソファに身を沈めた。
呑みすぎたぁー‥‥‥。
はぁー、
息を吐いて。ダイニングの方を見る。
桜緒と円が躰を寄せてなにかしている。笑顔の桜緒が円を見あげる。円が桜緒の頭を撫でる。
自然な動作。自然なふたり。
「どした?」
碧の声に。セツは、
「‥‥‥桜緒、心許しとるんじゃね」呟いてから、
「あたりまえか、」
と、碧のほうへ向くと。
「まあ、家族になるんだし。‥‥‥うん、でもね。珍しいでしょ。桜緒がね。あの距離ね」
他者との接触を好まない、身内以外の相手とは一定の距離を保つ桜緒。彼にはああやって触られても平気なんだ。
「だからさ、」碧が云う。
「え?」
「桜緒が懐くのって珍しいでしょ? だからね。じゃあ結婚。‥‥‥っていうか、入籍しちゃおうか。って事になったんだよね」
「‥‥‥そっか、」
セツはまたふたりの方を。
「‥‥‥そっか、‥‥‥そうじゃねぇ、」
桜緒に向ける、円の視線は柔らかい。‥‥‥静や、碧と同じ眼。愛おしい、たいせつなものを慈しむ眼。
「セツは?」
「え?」
「‥‥‥セツは、どうするの?」
「………………、え?」
質問の意味がわからず。セツは碧の真顔を見つめる。
ドウスルノ?
どうしたい?
どうすればいい?
‥‥‥どうにもならんじゃろぉ?
*****
硝子越しに、桜緒と円が笑い合う姿が見える。
庭に立って。セツは空を見あげ、ふぅ‥‥‥と、息を吐いた。
‥‥‥酔った。
火照った頬に風が心地良い。ひらひらと花びらが落ちてくる。
はぁ‥‥‥、
星を見あげて。眼を閉じて。
息を吸いこんで。
うたう。
声を抑えて。囁くように。
ゆっくりと、歩きだして。
【つきのカケラをノミコンデ】の表紙に惹かれて。手にとって。読んで。
喉の奥が、痛くなって。
胸がざわめいて。
空の向こうに。タマシイがとばされて。この桜を思って。あの出逢いの瞬間を思って。
泣きそうになって。
つくった、うた。
救いのない、ものがたり。
桜緒は、【翡翠】としての桜緒は。
なにを思って書いたんだろう。
すきだすきだすきだ。何度でも。すきだすきだすきだ。ねえ、それでも。
世界はかわらない。楽園なんてもうない。あの月はいまも泣いている。
夢をみる。永劫に、かなしいゆめを。
壊れたままの世界に、立ちつくすだけ。
待つことは苦手だから。ココロを手放した。遠くとおくへ。紫羽の蝶がタマシイを運ぶ、
ひらひらと、
あの、世界の果てに、虚ろな蜃気楼が現を揺らすんだ。
眼を開けると。
桜緒が居た。
ふわりと。
‥‥‥すきだすきだすきだ。たとえ世界がかわらなくても。
大きな瞳が、セツを見ている。
視線が対峙する。想いがとける薄闇に桜の気配に。
云えば良かった? 云えるはずが無くても。
ずっと。
ずっとひとりだけを愛しているから。
想い続けているから。
他の誰も愛せない。囚われているんです。
手を伸ばす。
すきだすきだすきだ。楽園なんて、要らない。
「‥‥‥桜緒‥‥‥、」
その、髪に触れる。楽園なんて、世界なんて滅びたって良い。
そのくらい、すきだった。すきなんだ。こんなにも。
ほんとうは、
「‥‥‥‥‥‥、」
抱きしめた。
そっと。
たいせつに。
「桜緒、」
力をこめる。「桜緒、」
譫言のように、泣きそうな声で。セツが桜緒の名前を。
ほんとうは、
うたなんて、捨てたって良かったんだ。
世界なんて壊れて仕舞えって。
ずっと、願って。
からっぽだった。
ただ桜緒のことを想うときだけ。それだけがセツの世界だった。
桜緒を想って。
まやかしの虚構の中で。艶やかな色がその想いだけが。
「‥‥‥桜緒、」
抱きしめる。ただ。この腕の中にある、リアルを。
柔らかな。
言葉にできない感情を幾種も織り交ぜて。
「桜緒、」名前を、呼ぶ。その度に、胸に熱い塊が。
すきだ、ずっと。ずっと。
この声とひきかえに。手に入れられるものがあるのだとしたら。
「‥‥‥‥‥‥すき、なんだ、」
そっと、
頭を撫でられる。
「‥‥‥セツくん、」
桜緒の声に、
セツの躰が、ぴくりと。震えた。
「泣かないで‥‥‥?」
桜緒は云って。頭を撫でていた指を、頬に。
手のひらで、セツの頬を包むように。
「泣かないで?」
そっと。やさしく。やわらかな。
セツを見つめて。
その頬に、くちづけた。
「‥‥‥‥‥‥さ、」
「わたし、‥‥‥セツくんのうたがすきよ」
微笑んで。
「セツくんが、すきよ?」
だから、
「泣かないで、」
「‥‥‥さお?」
さよならを。閉じた世界を壊して。
「逢えて、うれしい」
だって綺麗だから。
「だいすきよ?」
待つことすら、望まない。
ただ、想いだけを。
「逢いたかったよ?」
だいすきよ。
ずっと。
「ずっと、想っていたよ。願っていたよ。あなたの、しあわせを、」
だいすきよ。
だから、ただ。
願うだけ。しあわせで、ありますようにと。
待つことはできないけれど。
願うことは、できるから。
桜緒は、真っ直ぐに。
セツを見ている。
その揺らぎのない瞳。
引きこまれそうになって、不意に気づく。
「桜緒‥‥‥でも、だって、」
「なぁに?」
「‥‥‥けっ、こん、‥‥‥する、って」
「‥‥‥はい、」
「結婚。‥‥‥」
そうだ、
結婚、するんだ。他の男の。彼の。
「結婚、せんでよ」
「‥‥‥、」
「結婚なんて、‥‥‥せんで、桜緒。そりゃあ、あの人。折原さんは良えひとだと思うけど、でも。いまさら遅いのもわかっとるけど、でも、」
「セツくん?」
「わかっとるよ。わかっとるけど。でも、‥‥‥厭なんじゃ、わし。桜緒以外誰れも好きになれん、愛しとるんよ。愛してる、」
「‥‥‥セツくん?」
「愛しとる、」
「‥‥‥セツくん、‥‥‥」
ぐちゃぐちゃ。愛してる愛してる愛してる。譫言みたいに繰り返しながら。
悔しくて苦しくて。
他の誰も愛せない。
知っていたのに。わかっていたのに。何処かで、ちゃんとわかっているのに。あの日、手を離した。離れたままだった。こわくて。何も云えないまま。
こわかった。
逃げてただけだ。怖かったんだ。なのに、諦めきれずに。
「わかっとるんよ。わしが、‥‥‥あほじゃけぇ、もう遅いのもわかっとるんよでも」
「セツくん、‥‥‥ねぇ?」
「‥‥‥‥‥‥、ずっと、あの頃も、ずっと。すきじゃったんよ。すきなんよ」
「泣かないで、」
手のひらで。桜緒がセツの頬をそっと拭う。そのまま頬を両手で挟んで。
「‥‥‥落ち着いて?」
云われて。セツは深く息を吸い。こくりと頷いた。
「わたしは、結婚。しませんよ?」
「‥‥‥‥‥‥、え?」
「しませんよ。結婚、」
いま、
なんて?
桜緒?
「なか、入りましょう」
「‥‥‥いま、なんて? 桜緒?」
「なかはいりましょう」
「いや、‥‥‥じゃなくて。結婚、」
「しませんよ」
「え?」
どういうこと?
*****
なんの、奇跡?
‥‥‥あ、酔っているからか。そうか、酒のせいじゃ。夢か? 夢、みとるんじゃね。なんて都合の良ぇ夢。
ぼんやりと。
桜緒を見ていた。
‥‥‥。
涙を拭ってくれた桜緒の指は手は抱きしめたぬくもりは、‥‥‥、
‥‥‥夢、なんじゃろぉ? ぼんやりと桜緒に視線を固定したまま。手を伸ばす。両腕を。
桜緒がセツの腕に納まる。抱きしめる。
キモチえぇな。あたたかいな。甘い香り。桜緒の。華奢で柔らかな躰を腕に抱いて。セツはうっとりと。至福。夢でも良ぇ。もう。
だって、しあわせだから。
もう、眼が覚めなければ良ぇのになぁ‥‥‥。
*****
「あれぇ? 可愛いのがある」
円がふたりを見つけてそう云った。
「‥‥ある。って。オブジェじゃあないんだからさ」
碧が苦笑する。テーブルに袋を乗せて、「あー、重かった」と手をふるふる振る。袋から缶ビールを取り出して。
「セツも寝ちゃったのか」
「可愛いよねぇ」
円はふたりのすぐ傍にしゃがみ込んで。寄り添って眠っているその寝顔を眼を細めて眺める。
「うん、」
「‥‥‥きょうだいみたいだね。微笑ましい」
「そうだね、」
「‥‥‥コイビト?」
「なにが?」
「このふたり、‥‥‥違う?」
「‥‥‥んー、‥‥‥そうね。どうなのかな、」
「‥‥‥ふぅん?」
円はそう云うと。再びセツと桜緒を見、「よいせっと、」と立ち上がる。
「恋人。っていうには、生々しさがないよね。綺麗すぎる。‥‥‥桜緒ちゃんのせい?」
「‥‥‥、」
「どうする?」
「‥‥‥‥‥‥え?」
なにやら考え込んでいた風の碧が、顔をあげる。
「なに?」
「‥‥‥この子達。風邪ひくよ? 起こす? ベッドに運ぶ? ねぇ、でもさ、離しちゃうの勿体ないね。写真、撮っておく?」
「うん? ああ、そうだね、撮ろうか? あとは、‥‥‥毛布かなにか、掛けておこう」
*****
恋だったのかどうかは知らない。たぶん本人もわからないと思う。
ただ、
きれいなふたりだった。
ふたりの世界は美しかった。
恋だったかどうかはわからない。
でも、
満ちていた。気配。
壊れかけていた桜緒のこころををセツのうたが取り戻してくれた。
おれたちはね、感謝しているんだよ。セツ。
桜緒を取り戻してくれた。きみに。きみのうたに。
その出逢いの奇跡に。
けれど、
*****
眼が覚めると。ひとりだった。
「‥‥‥やっぱり、夢だったんかぁ‥‥‥」
まだぼんやりとした意識のまま。毛布から腕を出して。手のひらを見る。
抱きしめた記憶。ぬくもりの記憶。鼻腔の奥に残る匂い。
「‥‥‥ゆめ‥‥‥?」
がばっ。
はっきりと覚醒したセツは半身を起こす。
「‥‥‥ぅぇ、」
ぐるん、となった。視界が。ぐりん、っと。そのままソファに突っ伏して。眩暈が治まるのを待つ。
「やばい‥‥‥、完全に二日酔いじゃ‥‥‥、」
はぁー‥‥‥。
「あ、セツさん起きた?」
声にのろのろと顔を向ける。「‥‥‥おはよ‥‥‥ございます、」
「はは、凄い顔。皺寄ってますよ、眉間。なに? 二日酔い?」
そう云って爽やかに笑う円はそのままキッチンへ行き、珈琲豆を挽きはじめた。
「‥‥‥‥‥‥、」あ、『月色』じゃ。円が珈琲をおとしながら口ずさんでいる歌。Fioriの曲。インディーズ時代の。
「なにか食べられそうですか? お味噌汁でもつくります?」
「‥‥‥いえ、‥‥‥珈琲だけで。‥‥‥顔、洗ってきます、」
立ち上がり。のそのそと出て行きかけて、「あ、」
「毛布、‥‥‥掛けてくれたの、」
「あ、うん。碧。ごめんね。なんかね、可愛かったから。そのままにしちゃった。‥‥‥床で寝て。躰痛いでしょう?」
「‥‥‥あの、」
「ん?」
ひとり、でした?
問いかけて。口を噤む。
「敬語使わないでください。なんか居心地悪くなるから、」代わりに、そう云うと。円は嬉しそうに。
「わかった。じゃあ、そうするね。セツくん、って呼んでもいい?」
「はい。‥‥‥折原さん、うた。上手ですね」
そ
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